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2023年9月2日土曜日

先鋭登山をわかりやすく伝えるのは難しいことなのである


「登山は基本的に自己満足の世界」...それでもなぜ、一流クライマーによる"疑惑の登山"はなくならないのか? | 山はおそろしい | 文春オンライン


 「登山家と嘘」というテーマでインタビューされました。


このなかで、インタビューアーの中村計さんがこんなことを語っています。


現代の先鋭的登山を書くときの最大の壁は、その挑戦がいかに大変かを一般読者に伝えることがとてつもなく難しいということだと思うんです。


これはまったくそのとおりであって、これまで私も、どうしたら伝わるのだろうかといろいろ模索してきました。


模索の結果、私が多用しているのは、野球や格闘技などのスポーツに例えるという手法。たとえば栗城史多さんについて書いた記事では、栗城さんを「大学野球の平均的選手」に例え、栗城さんが目指していたエベレスト北壁を「メジャーリーグ」とすることで、実力と目標の乖離を表現しようと試みました。


昔であればこんな面倒なことをする必要はありませんでした。エベレストが登られていない時代は、究極の目標はエベレスト初登頂であり、そこにどれだけ近いかによって登山家の価値は決まる――ということは、野球や格闘技にたとえるまでもなく、誰にでも理解できる話だったからです。


ところが今は、先鋭登山の課題は多様化・細分化し、その評価は専門家でも容易ではありません。エベレスト北壁の登山史的価値を正確に評価できる人は、登山業界でも多くないのが実情です。そこに「無酸素」とか「単独」とか「冬期」とか「新ルート」などの各種条件が加わるとなおのこと。ましてや、登山をやらない一般読者にわかるはずもないでしょう。


そこで私は、野球や格闘技になぞらえることでわかりやすくする手法をとることにしたわけです。ただしこれはあくまでイメージを伝えるためのもので、多少の不正確性には目をつぶっています。「栗城さんのレベルは大学野球ではなくて高校レベルなのではないか」とか、「登山と格闘技は別物である」などと言われることもありましたが、そういうことではないんだ! 小さな正確性よりも大きなイメージを伝えることを優先した結果なので、細かいところを突っつかれても困るw


学者のコメントで、正確性を重視するあまり、素人には結論がわからないということがよくありますよね。「状況によって一概にはいえない」とか。確かにそのとおりなんでしょうが、私たち素人が知りたいことは細かくて厳密な事実ではなく、大きな枠組みなのです。学者や専門家は、事実の正確性にこだわるあまり、大きな枠組みを示してくれないことがよくあります。私はこれがいつもストレスに感じるので、自分が説明するときには伝わりやすさやわかりやすさを優先しています。




ところで最近、このあたりのことを説明するには、先鋭登山をスポーツに例えるより、学問や科学に例えるほうが適切かもしれないと思うようになりました。専門家以外にはなかなか内情がわからないところとか、メディアでもてはやされる人の本業の実態がよくわからないところとか、似ているなと思うのです。ノーベル賞やピオレドールで何が評価されたのかはわからないけど、受賞者がすごい人であることは想像できるとか。


そんなことを考えていると、先鋭登山は専門的になりすぎて蛸壺化しているなとも思えてきました。ただしだからといって、ごく一部の専門家やマニアの嗜みに過ぎないかというと、そうでもないんですよ。素人にはどうでもいいようなわずかな違いにこだわって工夫や切磋琢磨を続けてきた結果、登山は少しずつ前に進んでいるのです。


たとえば無酸素登山というのは、人類の可能性を広げる大きな一歩だったわけですが、そこに至るまでには、無数の登山家の死屍累々といえる試行錯誤が背後に存在します。そうした多くの蓄積を土台として、ときおり大きなイノベーションが起こる。そんなところも学問に似ているかもしれません。


服部文祥さんが、「登山の文化にフリーライドしている」と言って栗城さんを批判したことがありました。「無酸素」とか「単独」とかの言葉を使うなら、その言葉が意味する正しい手順を踏めと。登山史が長年かけて獲得してきた成果を自分の箔付けだけに使って、実態は適当にスルーするのではただのズルじゃないかということですね。



とりとめがなくなってきました。

最後に、先鋭登山の評価基準となるものをざっくりと説明しておきます。


1)どれだけ困難なことをしているか

2)新しいことをしているか


大きくはこのふたつです。


1は、技術的な難しさ。だれもが登れなかった困難な岩壁を登りきったとか、クライミンググレードの世界最高を更新したなどのことですね。技術的な困難を克服したということは単純に評価の対象となります。


2は、山の初登頂が典型例となります。だれも登ったことがない山に登ることは間違いなく新しいこと。ほか、酸素ボンベやロープを使うことが常識だった山で、それらを使わずに登ることも「新しいこと」です。だれも注目していなかった山を見つけ出して登ることもこれにあたります。


先鋭登山の総合評価は1+2で決まります。技術的に困難でも新しい要素がゼロであれば総合点は伸びませんし、その逆もしかり。例えれば、1は技術点、2は芸術点といった感じでしょうか。また雑な例えをしてしまいましたが、まあ、そんな感じです。以上。



3 件のコメント:

  1. 私は常々、登山やクライミングの世界の評価システムを医者や自然科学の世界を例に説明しています。
    科学者が論文を発表する学会誌が、登山やクライミングでは記録を発表する専門メディアだという風に。

    発表された記録は世界中の同好の士が議論し検証して認められたものが定着する。ジャッジはいないようでいるのだと。
    先鋭登山を一般に理解してもらうには、個々の記録を説明するのと同じぐらい、このシステムを理解してもらう事が重要だと思っています。

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    1. お久しぶりです。コメントありがとうございます。私も同じようなことを考えていました。飛び抜けた記録が世界のメディアやクライマーの間で議論されて確かめられたり認められなかったりする過程は、論文の査読みたいですよね。グレードの揺れが議論を通じて落ち着いていく過程も学会っぽいです。

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    2. プログレス金子2023年9月4日 20:42

      この名前で何かを書くのも久しぶりなので超お久しぶりです。
      純粋な議論がある一方で建前も本音も打算もそれなりにあったりするところがまた似ているかもしれません。

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