こういう文章を読んだ。
価値というのはモノに内在しているという、長らく続いたモノを中心としたマーケティングの支配的思想が、サービス概念によって、価値は共創的に生まれると考えられるようにもなってきたように、マーケティングというものを「企業が顧客に働きかける活動」というものから、「企業と顧客間との相互行為である」というものとして、もっと思想を変えていかなければならないのだろう。
私はこれを読んだとき、文章の意味がわからなかった。もう1回読み返してもよくわからない。そこで3回目、文章構造に注意しながら時間をかけて読み直し、さらに4回目にして、ようやく、言わんとしていることがなんとなく想像できるようになった。
なんだかとても既視感のある文章だなと感じ、ちょっと考えた末に、高校時代の国語でよく見た文章に似ていると思い当たった。
私は国語がとにかく苦手で、好きでもなく、授業やテストが苦痛だった。問題文の意味がわからないのだ。どうやったらわかるようになるかの筋道も想像できず、なんのために自分はこんなことをやっているか理解もできないままに学生時代を終えた。
自分で言うのもまったく口幅ったいのだが、私の文章はわかりやすいと言われることが多い。これまた口幅ったいが、自分でもそう思う。なぜそうなのか、理由ははっきりしている。私が文章を書くときにいちばん気を配っていることが、わかりやすく書くことだからである。だからわかりやすくなるのは当然。むしろわかりやすくなっていなかったら、私の最大努力は実を結んでいないことになるので悲しい。
自分はなぜこんなにわかりやすさに固執するのかなと考えると、それは高校時代に苦しめられた恨みに起因している。あんな苦しい文章は読みたくないし読ませたくない。そんな思いがずっと心の底にある。わかりやすさを磨かせる強いモチベーションになったという意味では、国語の授業は私の糧になったともいえるのかもしれない。
まあ、その結果、私の文章は格調や味に欠け、ともすると安っぽく、ときには頭が悪そうにさえ見えるようになってしまった。しかし、文章の第一義は意味を伝えることにある。できるだけ多くの人に、できるだけ素早く伝達を達成できるもののほうが、文章として高性能といえるのではないか。国語の授業ではむしろこういう技術を勉強するべきではないのかと強く主張したい。
ところで、冒頭の文章を私がリライトしてみたら以下のようになった。元の文章で理解しきれないところもあるので、これで意味が合っているのかどうか、80%くらいの確信しかもてないけれど、どうだろうか。読解合ってるかな??
"モノ”を中心とする伝統的なマーケティングでは、価値は物に付随するというのが一般的な考え方であった。ところが、”サービス“という概念が普及した結果、価値は受け手と共に創りあげられるものと考えられるようになってきた。同じように、マーケティングも、「企業が顧客に働きかける活動」から、「企業と顧客との相互行為」としてとらえるようになっていかなければならないのだろう。
*私の高校時代に、わかりにくい文章を書く筆頭格として悪名高かったのが評論家の小林秀雄。ところが40代になってから、数十年ぶりに小林秀雄の文章を読んだところ、その格調高い言葉のチョイスと流れるように理解できる論理展開に驚いた。私が高校時代に苦しんだのはなんだったんだろう。