あおりタイトルです笑
知り合いとツイッターで法律文のわかりにくさについてやりとりをしていたところ、思いついたことがあったので書いておきます。わかりにくい文章とその改善策についてです。
私が以前勤めていたころの『山と溪谷』編集部では、プロライターはあまり起用せず(起用したくとも登山のプロライターがほとんどいなかった)、登山家や山小屋の人、カメラマンなどに原稿を書いてもらうことがほとんどでした。彼ら彼女らは文章の専門家ではないので、文章にはそれなりに難があります。そこを編集者が手を入れて読みやすく整えるということをしていました。
そんなことを毎月、何年もやっていると、ある一定の傾向が見えてくるもの。文章を書き慣れていない人がやってしまいがちな問題点。
いろいろありますが、もっとも単純かつもっとも頻度が高いものを挙げるとすると、以下の3つになります。
・文章が長い
・語順がおかしい
・接続詞が多い
以下解説します。
これは実際に私が受け取った生原稿の一文です。途中で「ん?」と思って前に戻って読み返したりしませんでしたか。問題はいくつもあるのだけど、まずは一文が長すぎるのです。
この文章の構造はこのようになっています。
秋の唐松岳は
・ダケカンバやナナカマドの紅葉(だけでなく)
・頚城山塊から南アルプスまで広がる雲海(や)
・劔・立山連峰の上空を染めて日本海に沈む太陽
・街灯りと満天の星空
など秋ならではの素晴らしい光景が期待できる。
秋の唐松岳には4つの魅力があると言っているわけですね。しかし、「秋の唐松岳は」と始まった文章が結論を言うまでに4つの要素を入れてしまっているので、読み手はなんの話だったのか途中でわからなくなってしまうのです。
この場合のいちばん簡単な修正法は、文章を短く切ることです。
たとえばこんなふうに。
だいぶ読みやすくなったんじゃないでしょうか。もともとの文章が言葉足らずなので、(の魅力)とか(にあるわけ)などの補足が必要で、後半では、助詞「や」や読点「、」を数カ所調整もしていますが、読みやすくなったもっとも大きな理由は、文章をふたつに分けたことにあります。
一般的に、わかりやすい文章を書くには一文を50字以内にとどめたほうがよいといわれます。これは経験的にもそんな感じかなと思います。作家を目指しているとかでもないかぎり、文章は50字といわず短いほどよいです。長い一文を誤解なく読ませるには技術が必要だからです。
試しに、私がここまで書いてきた一文の平均文字数を数えてみたら、約37字でした。20字台がもっとも多くて9文、次に30字台の6文。それに対して、例に出した原稿の一文は98字。この長さをスルッと読ませるにはそれなりに工夫が必要です。
【まとめ】
ひとつの文章はできるだけ短く!(50字以内が目安)
これはおかしいところたぶんすぐわかると思います。
こうすればよいわけですよね。簡単な修正ですが、こういうの非常に多いです。
なぜこうなってしまうかというと、書き手の頭のなかには剱岳がもっとも印象的な光景として残っているからです。なので、真っ先に「剱岳が!」と言いたくなってしまう。まずそれを言って落ち着いてから、補足的な状況描写を書くと、上の文のようになってしまうというわけです。
この文章はこういう構造になっています。
(富士ノ折立からは)
・剱岳が
・残雪をいただいた内蔵助カールの後方に
顔を出す
「剱岳が」も「残雪をいただいた内蔵助カールの後方に」も、どちらも「顔を出す」につながります。
こういう場合は、「短い言葉ほど近くに置く」という原則を守るだけで、俄然誤解が少なくなります。「剱岳が」のほうが「残雪をいただいた内蔵助カールの後方に」より文字数が少なく短い。そういう言葉ほど、つなげたい言葉の近くに置く。これ、とても単純な原則ですが効果絶大です。
一方、上の文章がこういう構造だったらどうでしょう。
(富士ノ折立からは)
・残雪をいただいた剱岳が
・内蔵助カールの後方に
顔を出す
もともとの文章では「残雪をいただい」ているのは内蔵助カールですが、今度は剱岳が「残雪をいただい」ている状況を書きたい場合。
1)富士ノ折立からは、残雪をいただいた剱岳が内蔵助カールの後方に顔を出す。
2)富士ノ折立からは、内蔵助カールの後方に残雪をいただいた剱岳が顔を出す。
この場合は1のもともとの語順のほうが明らかに誤解が少ないですよね。誤解が少なくなる理由はいくつかあるのですが、「短い言葉ほど近くに置」いていることはそのひとつであります(短いといってもこの場合はわずか1字ですが。それでも重要です)。
このあたりのことは、本多勝一氏の『日本語の作文技術』という本に非常に詳しくかつわかりやすく載っています。私は学生時代にこの本を読んで、とても影響を受けました。このこと以外にも、わかりやすい文章を書くためのコツが満載なので、激おすすめしておきます。
【まとめ】
長い言葉ほど遠くに、短い言葉ほど近くに置く!
「そして」とか「しかし」とか「ところで」とか「だから」とか「したがって」とか「ところが」とか「それから」とか「あるいは」とか「また」とか「なぜなら」とか「すなわち」とか。
接続詞って息つぎみたいなもので、なんとなく使われているケースが多いのです。よくよく考えるとそこに意味はないんだけど、「なんとなく」使うと、「なんとなく」文章がまとまったような気がして、つい使ってしまうんですよね。
これはたくさん使ったからといって文章がわかりにくくなるというわけでは必ずしもないのですが、文章がギクシャクして読みづらくはなります。
とくに個人的に注目しているのは「また」。「これは○○である。また、あれは××である」などと使われるアレです。好きな人はほんとによく使うけれど、これは意味のない接続詞の筆頭格で、経験的に9割の「また」は不要です。「また」を外すことで前後の「てにをは」を整える必要がある場合もありますが、そのまま外してしまっても問題がないことも多いです。そして、「また」を外したほうが、往々にして文章のリズムはよくなります。
たとえばこういう文章。
この原稿を私はどうリライトしたのかなと思って、誌面を見てみたら、こうなっていました。
後者のほうがすんなり読めませんか(そうでなかったらすみません)。そもそも前者の「また」は、ほとんど機能してないよね。
「また」には、文章のリズムを悪くするほかに、文章を堅苦しくするという効能もあります。ここで「又」なんて漢字を使えばダブルでその効果が期待できます。クレームや抗議文などで相手を脅かしたいときには多用するといいのかもしれませんが、日常文章では使わないのが吉です。
もちろん、接続詞には使わないとならないものもあります。「しかし」とか逆説の接続詞なんかはその代表格。そのほかにも、文章のリズムを整えるためだけに使いたくなることもあります。私自身が、リズム整えのための接続詞を多用してしまうほうです。
ただし一般的には、接続詞はできるだけ使わないようにしたほうが文章は読みやすく、すっきりするはずです。「できるだけ使わないぞ」と意識すると、使いたくなったときに、文章の意味を通すために別の表現を考えざるを得なくなります。たいていの場合は、ちょっと考えると別の表現が見つかるんですよ。これは文章トレーニングにすごく効果的だと思います。実際、私は他人の文章をリライトすることでこれを毎月繰り返しているうちに、表現の引き出しがすごく増えました。だからおすすめなのです。
接続詞を使わないですむ表現がどう考えても見つからない場合。このときこそが、接続詞を使うべきときなのであります。こういう、ここぞというときに放つ乾坤一擲の接続詞は、逆にすごい切れ味を持ちますので。
【まとめ】
「また」は使用禁止!
****
ところでツイッターにも書いたのですが、「一文が長い」ということでこれまでもっとも印象に残っている文章があります。「号泣議員」として有名になった野々村竜太郎氏のブログなのですが、その長さはまさに超弩級。すごいです、どうぞ。
なんと約1100字、一気の長文です。この間、「。」はひとつもありません。これほどの長さの一文には滅多にお目にかかれません(なんですが、判決文とか法的文章には珍しくないんですよね。なんと2000字という一文まであると聞きました。正確な伝達がもっとも必要とされる文章でなぜそうなのかは本当に謎です)。
この文章には「無駄に漢字が多すぎる」という問題もあり、突っ込みどころ満載。リライト素材としては20年に一度級の超大物。これを見つけたときは、ふらっと釣り(ネットサーフィン)に出かけたら、500kgのマグロがかかってしまったような感覚でした。これをわかりやすい文章に直すのは相当に骨が折れますが、リライターとしては腕が鳴るところであります。
知り合いとツイッターで法律文のわかりにくさについてやりとりをしていたところ、思いついたことがあったので書いておきます。わかりにくい文章とその改善策についてです。
私が以前勤めていたころの『山と溪谷』編集部では、プロライターはあまり起用せず(起用したくとも登山のプロライターがほとんどいなかった)、登山家や山小屋の人、カメラマンなどに原稿を書いてもらうことがほとんどでした。彼ら彼女らは文章の専門家ではないので、文章にはそれなりに難があります。そこを編集者が手を入れて読みやすく整えるということをしていました。
そんなことを毎月、何年もやっていると、ある一定の傾向が見えてくるもの。文章を書き慣れていない人がやってしまいがちな問題点。
いろいろありますが、もっとも単純かつもっとも頻度が高いものを挙げるとすると、以下の3つになります。
・文章が長い
・語順がおかしい
・接続詞が多い
以下解説します。
文章が長い
”秋の唐松岳はダケカンバやナナカマドの紅葉だけでなく、頚城山塊から南アルプスまで広がる雲海や劔・立山連峰の上空を染めて日本海に沈む太陽、街灯りと満天の星空など秋ならではの素晴らしい光景が期待できる。”
これは実際に私が受け取った生原稿の一文です。途中で「ん?」と思って前に戻って読み返したりしませんでしたか。問題はいくつもあるのだけど、まずは一文が長すぎるのです。
この文章の構造はこのようになっています。
秋の唐松岳は
・ダケカンバやナナカマドの紅葉(だけでなく)
・頚城山塊から南アルプスまで広がる雲海(や)
・劔・立山連峰の上空を染めて日本海に沈む太陽
・街灯りと満天の星空
など秋ならではの素晴らしい光景が期待できる。
秋の唐松岳には4つの魅力があると言っているわけですね。しかし、「秋の唐松岳は」と始まった文章が結論を言うまでに4つの要素を入れてしまっているので、読み手はなんの話だったのか途中でわからなくなってしまうのです。
この場合のいちばん簡単な修正法は、文章を短く切ることです。
たとえばこんなふうに。
”秋の唐松岳の魅力は、ダケカンバやナナカマドの紅葉だけにあるわけではない。頚城山塊から南アルプスまで広がる雲海、劔・立山連峰の上空を染めて日本海に沈む太陽、街灯りと満天の星空など、秋ならではの素晴らしい光景も期待できる。”
だいぶ読みやすくなったんじゃないでしょうか。もともとの文章が言葉足らずなので、(の魅力)とか(にあるわけ)などの補足が必要で、後半では、助詞「や」や読点「、」を数カ所調整もしていますが、読みやすくなったもっとも大きな理由は、文章をふたつに分けたことにあります。
一般的に、わかりやすい文章を書くには一文を50字以内にとどめたほうがよいといわれます。これは経験的にもそんな感じかなと思います。作家を目指しているとかでもないかぎり、文章は50字といわず短いほどよいです。長い一文を誤解なく読ませるには技術が必要だからです。
試しに、私がここまで書いてきた一文の平均文字数を数えてみたら、約37字でした。20字台がもっとも多くて9文、次に30字台の6文。それに対して、例に出した原稿の一文は98字。この長さをスルッと読ませるにはそれなりに工夫が必要です。
【まとめ】
ひとつの文章はできるだけ短く!(50字以内が目安)
語順がおかしい
”富士ノ折立からは、剱岳が残雪をいただいた内蔵助カールの後方に顔を出す。”
これはおかしいところたぶんすぐわかると思います。
"富士ノ折立からは、残雪をいただいた内蔵助カールの後方に剱岳が顔を出す。”
こうすればよいわけですよね。簡単な修正ですが、こういうの非常に多いです。
なぜこうなってしまうかというと、書き手の頭のなかには剱岳がもっとも印象的な光景として残っているからです。なので、真っ先に「剱岳が!」と言いたくなってしまう。まずそれを言って落ち着いてから、補足的な状況描写を書くと、上の文のようになってしまうというわけです。
この文章はこういう構造になっています。
(富士ノ折立からは)
・剱岳が
・残雪をいただいた内蔵助カールの後方に
顔を出す
「剱岳が」も「残雪をいただいた内蔵助カールの後方に」も、どちらも「顔を出す」につながります。
こういう場合は、「短い言葉ほど近くに置く」という原則を守るだけで、俄然誤解が少なくなります。「剱岳が」のほうが「残雪をいただいた内蔵助カールの後方に」より文字数が少なく短い。そういう言葉ほど、つなげたい言葉の近くに置く。これ、とても単純な原則ですが効果絶大です。
一方、上の文章がこういう構造だったらどうでしょう。
(富士ノ折立からは)
・残雪をいただいた剱岳が
・内蔵助カールの後方に
顔を出す
もともとの文章では「残雪をいただい」ているのは内蔵助カールですが、今度は剱岳が「残雪をいただい」ている状況を書きたい場合。
1)富士ノ折立からは、残雪をいただいた剱岳が内蔵助カールの後方に顔を出す。
2)富士ノ折立からは、内蔵助カールの後方に残雪をいただいた剱岳が顔を出す。
この場合は1のもともとの語順のほうが明らかに誤解が少ないですよね。誤解が少なくなる理由はいくつかあるのですが、「短い言葉ほど近くに置」いていることはそのひとつであります(短いといってもこの場合はわずか1字ですが。それでも重要です)。
このあたりのことは、本多勝一氏の『日本語の作文技術』という本に非常に詳しくかつわかりやすく載っています。私は学生時代にこの本を読んで、とても影響を受けました。このこと以外にも、わかりやすい文章を書くためのコツが満載なので、激おすすめしておきます。
【まとめ】
長い言葉ほど遠くに、短い言葉ほど近くに置く!
接続詞が多い
「そして」とか「しかし」とか「ところで」とか「だから」とか「したがって」とか「ところが」とか「それから」とか「あるいは」とか「また」とか「なぜなら」とか「すなわち」とか。
接続詞って息つぎみたいなもので、なんとなく使われているケースが多いのです。よくよく考えるとそこに意味はないんだけど、「なんとなく」使うと、「なんとなく」文章がまとまったような気がして、つい使ってしまうんですよね。
これはたくさん使ったからといって文章がわかりにくくなるというわけでは必ずしもないのですが、文章がギクシャクして読みづらくはなります。
とくに個人的に注目しているのは「また」。「これは○○である。また、あれは××である」などと使われるアレです。好きな人はほんとによく使うけれど、これは意味のない接続詞の筆頭格で、経験的に9割の「また」は不要です。「また」を外すことで前後の「てにをは」を整える必要がある場合もありますが、そのまま外してしまっても問題がないことも多いです。そして、「また」を外したほうが、往々にして文章のリズムはよくなります。
たとえばこういう文章。
”花崗岩と砂礫の斜面は、雨後や霜が付いている時は滑りやすいので特に注意が必要だ。また下山時も同様である。”
この原稿を私はどうリライトしたのかなと思って、誌面を見てみたら、こうなっていました。
”花崗岩と砂礫の斜面は、雨後や霜が付いているときは滑りやすいので特に注意が必要だ。下山時も同様である。”
後者のほうがすんなり読めませんか(そうでなかったらすみません)。そもそも前者の「また」は、ほとんど機能してないよね。
「また」には、文章のリズムを悪くするほかに、文章を堅苦しくするという効能もあります。ここで「又」なんて漢字を使えばダブルでその効果が期待できます。クレームや抗議文などで相手を脅かしたいときには多用するといいのかもしれませんが、日常文章では使わないのが吉です。
もちろん、接続詞には使わないとならないものもあります。「しかし」とか逆説の接続詞なんかはその代表格。そのほかにも、文章のリズムを整えるためだけに使いたくなることもあります。私自身が、リズム整えのための接続詞を多用してしまうほうです。
ただし一般的には、接続詞はできるだけ使わないようにしたほうが文章は読みやすく、すっきりするはずです。「できるだけ使わないぞ」と意識すると、使いたくなったときに、文章の意味を通すために別の表現を考えざるを得なくなります。たいていの場合は、ちょっと考えると別の表現が見つかるんですよ。これは文章トレーニングにすごく効果的だと思います。実際、私は他人の文章をリライトすることでこれを毎月繰り返しているうちに、表現の引き出しがすごく増えました。だからおすすめなのです。
接続詞を使わないですむ表現がどう考えても見つからない場合。このときこそが、接続詞を使うべきときなのであります。こういう、ここぞというときに放つ乾坤一擲の接続詞は、逆にすごい切れ味を持ちますので。
【まとめ】
「また」は使用禁止!
****
ところでツイッターにも書いたのですが、「一文が長い」ということでこれまでもっとも印象に残っている文章があります。「号泣議員」として有名になった野々村竜太郎氏のブログなのですが、その長さはまさに超弩級。すごいです、どうぞ。
”特に本日、裁判を受ける義務を果たすために、テレビ局やラジオ局、新聞社、通信社、週刊誌や漫画・アニメ等出版社、インターネット新聞・テレビやブログ・ツイッター・フェイスブック等、フリージャーナリスト等全てのマスコミ、報道機関等に関係される皆様が第一回公判では300人以上も押し掛け、自宅や家族宅の生活圏に近付かないのは勿論、何人たりとも皆様と出会わず撮影されず取材強要されず無事に出廷し帰宅するためにも、是非とも何人たりとも皆様が押し掛け出廷や帰宅の妨げをされませんように、テレビ局やラジオ局、新聞社、通信社、週刊誌や漫画・アニメ等出版社、インターネット新聞・テレビやブログ・ツイッター・フェイスブック等、フリージャーナリスト等全てのマスコミ、報道機関等に関係される皆様に対しまして、コメントや会見は一切致しませんし、建造物侵入等自宅や家族宅の訪問やインターホンを鳴らしたりカメラを操作・名刺や手紙等を投函・待ち伏せ、付きまとい、張り込みや監視する行為等、制作者・著作者・著作権者でございます私のブログや写真、映像、YouTube、Facebook等を無断無許可で転載や引用、紹介等する行為、私や家族を記事や放送等で名誉毀損・信用毀損・侮辱・誹謗中傷等全ての人権侵害や「誤報」・迷惑行為・加害行為、公益・知る権利・報道の自由・公平で公正な「事実や真実」を伝える報道のためでもなく憲法第14条の精神も知らず、主に誹謗中傷や名誉毀損等人権侵害を行うことで出廷前に私や家族を社会的に抹殺することで視聴率・購読数・閲覧数・スポンサー便宜等営利目的や自分達の仕事・報酬のために、資本力や同じ人間の所業ではない常軌を逸した異常な組織的人海戦術に物を言わせることで公平で公正な「事実や真実」を隠蔽したりグレン・ホワイトの実験、ディパヤン・ビスワスやルビー・ドラキアの報告結果等の応用を悪用した編集や情報操作等、事件と無関係の事柄や、裏付け・検証の行われていない公平で公正な「事実や真実」と異なる報道、私を無断無許可で撮影する全ての行為やその撮影された写真や映像を記事や放送で使用する全ての行為、3時間以上にも及ぶ私の会見映像や無断無許可撮影した映像等を私や家族を社会的に抹殺するためにご都合主義に基づいた編集等を施した上で、名誉毀損・信用毀損・侮辱・誹謗中傷等全ての人権侵害と私が思料したり、事件と直接関係ない記事や放送等での使用、私に取材強要する等接触や暴行、話し掛けや強要、追い回しや脅迫などの全ての迷惑加害行為、その取材等の際の音声を記事や放送で使用する全ての行為等を固くお断り申し上げ、ご遠慮されますよう、お願い申し上げます。”
なんと約1100字、一気の長文です。この間、「。」はひとつもありません。これほどの長さの一文には滅多にお目にかかれません(なんですが、判決文とか法的文章には珍しくないんですよね。なんと2000字という一文まであると聞きました。正確な伝達がもっとも必要とされる文章でなぜそうなのかは本当に謎です)。
この文章には「無駄に漢字が多すぎる」という問題もあり、突っ込みどころ満載。リライト素材としては20年に一度級の超大物。これを見つけたときは、ふらっと釣り(ネットサーフィン)に出かけたら、500kgのマグロがかかってしまったような感覚でした。これをわかりやすい文章に直すのは相当に骨が折れますが、リライターとしては腕が鳴るところであります。