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2015年11月7日土曜日

アイゼンなのかクランポンなのか

登山に関する用語で、それまで一般的に使われていた呼び名を私が変えてしまったというものがいくつかあります。


ビレイディバイス
これとかこれのことです。確保器ともいいます。


2002年に発行された『ROCK & SNOW』で、ビレイデバイスの特集記事を作ったことがあります。
その冒頭の文章を書いていただいた山本和幸さんという人が言葉に厳密な人で、文章中すべて「ビレイディバイス」という表記を使っていました。
それまでは「ビレイデバイス」とみんな呼んでいたのですが、確かに綴り(Device)からすると「ディバイス」のほうが正しいようだ。
そこで、この特集記事ではすべて「ビレイディバイス」という表記を使ったのでした。


するとその後、クライミングギアメーカーのカタログやインターネット上で「ビレイディバイス」という表記が急に増えていきました。
クライミング界でのROCK&SNOWの影響力というのはかなり大きく、とくに人名や用語の表記はここで使われたものがクライミング界全体のスタンダードとなることが多いのです。
それまでまったく聞いたことがなかった「ビレイディバイス」が急速に増えていったのは、ROCK&SNOWの記事のせいであることは間違いありませんでした。


それを見て私は、ひとり「やっちまった感」を抱いていました。


高校生のころに私は、『BURRN!』というヘビーメタル雑誌が好きでよく読んでいました。
この雑誌には「ブルーズ」という言葉がよく出てきました。

「『ブルーズ』ってなんだ? 文脈からするとブルースのことらしいけど、わざわざ濁点をつけているということは、普通のブルースとはニュアンスの違うジャンルを表現しているんだろうか?」

高校生の私はそんなことを思ったりもしていたのですが、実のところはなんのことはなく、ブルースを発音に忠実な表記にしているだけなのでした。


やはりその当時好きなSF作家にマイクル・クライトンという人がいました。
『アンドロメダ病原体』とか、独特の不気味なトーンが漂っていて、かなりお気に入りだったものです。
その後、『ジュラシックパーク』でだれもが知るビッグネームとなるのですが、テレビや雑誌などでは「マイケル・クライトン」と紹介されているのです。

「ん? マイケル? あれ? 別人か? いや、でも、そんなわけは……」

もちろん別人なんかではなく、クライトンをいち早く日本に紹介した早川書房が「マイクル」という表記を使っていただけなのであります。
ちなみに綴りはMichael Crichton。
Michaelという名前は、日本では通常マイケルと表記しますよね。マイクル・ジャクソンとはいわないもんね。


このふたつのことから何が言えるか。


『BURRN!』も早川書房も、専門なだけに原音に忠実であろうとしたのだと思います。
確かにブルースは英語では「ブルーズ」と発音するし、マイケルも音的には「マイコォ」とか「マイクル」のほうが近いです。
しかしその結果として、(少なくとも私には)無用な事実の混乱を招いてしまったのです。


まわりくどくなりましたが、ビレイディバイスで私が「やっちまった感」を抱いたのは、これらの経験によります。
それまでデバイスと呼んでいたものがディバイスに変われば、何か別物になったのじゃないかと思われる可能性がある。
原音に正確であろうとした結果、それより重要であるはずの意味の混乱を招く。
それでは言葉として本末転倒なのではないか。だったら、多少発音が不正確でもすでに一般的になっている表記を使うべきなのではないか。
「デバイス」という言葉は当時から一般的に使われていて(デジタルデバイスとか)、そこをわざわざ「ディバイス」にする必要はなかった。いや、するべきではなかった。
……と、反省したのです。


しかし、「前号で『ディバイス』と表記したのは撤回します」と訂正を出すわけにもいかず、「ビレイディバイス」が普及していくのを心苦しく眺めることしかできませんでした。


というわけで、13年越しに「ビレイディバイス」の表記をここで撤回させていただきたく思います。実際、私は記事で「ディバイス」という表記を使っておきながら、この13年間、自分ではずっと「ビレイデバイス」と呼んでいました。ROCK&SNOW以外の場所では、書く際も「ビレイデバイス」としていました。申し訳ありませんでした。


というところで、長くなりましたがこの話題は終了……しようとしたのですが、ふと思いついて一応確認してみたところ、驚愕の事実が!
ここを開いて、三角マークをクリックしてみてください。
……「デバイス」って言ってない? そう聞こえますよね? 明らかに「ディバイス」じゃないよね!?


原音に正確であろうとした結果、無用な混乱を招いただけでなく、肝心の原音すら勘違いだったってことか!?
なんだかダブルで「やっちまった」のかも……。



アックス


アイスクライミングなどで使うクライミング用のピッケルのことです。
以前は「アイスバイル」あるいは略して「バイル」と呼ぶことが多かったのですが、近ごろは「アックス」と呼ぶほうが一般的です。
この呼び名の変化も私が原因——とまではいいませんが、私が後押しした可能性は濃厚です。


アイスバイルというのはドイツ語で(Eisbeil)、アイスハンマーという意味です。
しかし日本ではハンマーではなくアッズ(ブレード)の付いているタイプも一緒くたにアイスバイルと呼んでいました。ドイツ語でいくなら、そちらはアイスピッケル(Eispickel)と呼ばなければいけないのに。
そのへんの不整合性は、いちクライマーとしてはどっちでもいいことだったんですが、記事を書く立場としてはどうしても気になって、アイスバイルという言葉を使いたくなかったのです。


一方で、当時すでに「アックス」という呼称も一部で使われ始めていました。
アックスは英語Ice Axeの略。これならハンマータイプもアッズタイプもどちらでもOK。
ならばそれでいこう。
そう思った私は、ROCK&SNOW誌面ではすべて「アックス」という用語を使うようにしたのでした。


当時、ROCK&SNOW誌でのアイスクライミング記事は私が担当することが多く、必然、同誌では「アックス」という用語で統一されていくようになりました。
一般クライマーの間で「バイル」という呼称を聞く機会が減り、逆に「アックス」が増えていくようになったのもこのころと記憶しています。
私が変えたわけではないのですが、影響を与えた可能性は高いでしょう。


ところでクライミング用語は近年でも呼び方が変わったものがいくつかあり、その代表格は「ロープ」だと思います。
私がクライミングを始めた25年前は、「ザイル」という呼び方のほうが一般的だったように記憶しているのですが、今のクライマーは「ロープ」と呼ぶほうが普通です。
クライミング界は一般登山界よりも海外との交流が多い世界なので、英語に統一しようという気運が働いたのかもしれません。
いずれにしろ、一般社会的にもあれほど浸透した「ザイル」の呼称は意外なほど簡単に廃れ、やっている人の間では「ロープ」に換わってしまいました。
「ザイル」よりも「ロープ」のほうが若干発音しやすかったからではないかなと推測しています。
やっている人は頻繁にその言葉を口にしますからね。音数が少なく、言いやすく伝わりやすい言葉があれば、慣れ親しんだ言葉でも意外なほど簡単に捨て去ってしまうのだと思います。



バックパック


一般的に「ザック」と呼ばれているものです。
ザックはドイツ語ルックザック(Rucksack)の略、バックパック(Backpack)は英語で、同じものを指しています。
要は背中に背負うバッグのことです。


これについては、意図的にひとつの試みをしたことがあります。
『PEAKS』の創刊時から、「バックパック」という言葉で統一したのです。
理由は3つありました。


1.PEAKSの基となったアウトドア・フリーマガジン『フィールドライフ』では「バックパック」という用語を使っていた
2.旧来の登山雑誌と違う新味を表現したかった
3.登山用語は各国語が入り乱れているため、初心者にとってはわかりにくく、できるだけ統一したかった


こうした意図のもと、PEAKSでは創刊号からすべて「バックパック」と表記しました。
年配の方が書いた原稿などで、「バックパック」とするとあまりに違和感が強い場合をのぞき、「ザック」は基本的に封印。それは私が編集部を辞めたあと、現在に至るも続いています。


その間、PEAKS以外の場所でも「バックパック」という表記を見る機会が少しずつ増えてきました。
しかし「ザック」の浸透度は根強く、「バックパック」に置き換わる気配は見えません。
置き換わるにしても、今後まだまだ長い時間が必要に思えます。
バイルがアックスにあっさり換わったのに比べると、ザックのしぶとさが際立ちます。


その大きな理由は、「ザイル」のときと同じ、「音数」の問題ではないかと思われます。
「ザック」に比べて「バックパック」は発音数が倍になり、圧倒的に言いづらい。
ならばと「パック」と略してしまうと、なんのことかわかりにくくなってしまう。
これが「バックパック」が普及しにくい理由ではないかと思います。


こうしていろいろ考えると、「バックパック」を採用した試みには意味があったんだろうかと思わなくもありません。
ビレイディバイスのときのように、言葉を変えることで意味の混乱を招いているかもしれない。
なによりも、私自身がザック派です。自分でバックパックにしておきながら、自分でしゃべるときは「バックパック」なんてしゃらくさくて口にできません。


まあ、でも、四半世紀「ザック」で育ってしまった私のような世代はもういいんです。ほっとけば。
それよりも今後、登山の世界に入ってくる人たちにとって少しでもわかりやすくて便利な言葉はなにか。
そのときに英語にこだわりたい理由は、レスキュー界の話を聞いたことによります。
レスキューの世界でもやはり各国語が入り乱れていたそうです。
しかしそれでは、異なる地域の人たちが集まってレスキューに取り組むときに、使う用語が違うことによる混乱が生じたため、業界あげて意図的に英語に統一ということを進めているそうです。
登山でも、かかわる人が多様になっていくことを見据えれば、用語の統一は必要なことなんじゃないか……と思うのです。



クランポン


アイゼンのことです。
これとかこれとか


アイゼンはドイツ語シュタイクアイゼン(Steigeisen)の略、クランポン(Crampons)は英語です(フランス語でもクランポン)。


バックパックとまったく同じ構造ですね。
言葉の普及度からしても、「ザックvsバックパック」と「アイゼンvsクランポン」はほぼ同じような感じです。


これについても、最近、ひとつの試みをしてみました。
10月末に、私がメイン編集をした『最新雪山ギアガイド』という本が出たのですが、そのなかでは「クランポン」に表記を統一したのです。
これについては、バックパックほど明確な主張があったわけではありません。
表記はできれば英語に統一したほうがよいという基本理念と、メーカーを中心に少しずつクランポン表記が増えている現状を鑑みてのことです(上にあげたリンクはどちらも「クランポン」になっています)。


で、今後クランポンが普及するかどうか。
これは微妙ですね。
音でいえば、「アイゼン」と「クランポン」に言いやすさの決定的な差はありません。
どちらかというとアイゼンのほうが言いやすいかな。
ただ、ザックとバックパックに比べれば、その差はわずか。
だから今後クランポンが普及することもあり得るようには思います。


そしてこれまたバックパックと同じで、私自身はアイゼン派です。
四半世紀この言葉を使い続けていますからね。
ただしクランポンにはバックパックほど抵抗感はなく、今後宗旨替えをする可能性はあります。
抵抗感が少ないのはなぜかと言われても、理由はよくわからないんですが。



まとめ


用語のことをつらつら書き始めたら、日々考えていたことがどんどん出てきて、異常に長いエントリーになってしまいました。
ライターや編集という仕事をしていると、言葉の問題というのは考えさせられる機会が多く、言いたいことはいくらでもあるのです。
そして突き詰めれば突き詰めるほど矛盾があらわになってきて、迷いも増えていきます。
言葉というのは最初に体系的に作られるものではなく、自然発生的に使われているものの集合体なので、矛盾は絶対にあるのです。
だから文章においても、日々迷いと試行錯誤の連続なわけです。


そんなことにも少し注意して本を読んでいただければ、いままで気づかなかった発見もあるのではないかなと思います。
と、異常に長い文章のオチが、自分がかかわった本の宣伝という、ヒドいエントリーになってしまいました(笑)。






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